もしもゴッホが生前にバズっていたら、私たちはあの『夜のカフェテラス』に出会えていない。きっと。
三連休初日、ゴッホ展@神戸市立博物館に家族3人で行ってきました。正直なところ、ゴッホさんはひまわりと自画像くらいしか知らず、知識もないまま…「死後評価された画家」という認識のみで突撃しました。
当日は17時30分の入場で、人がかなりいて作品を見られるかなぁと思いながら進みました。息子は身長120cmちょっとなので厳しいだろうなぁと思ってたけど、そこはちびっこ。人を搔き分けて「油絵!」「これも油絵!」「これなんや!」みたいに油絵かどうかを判定するチェックマンになっていました。油絵があるって知られただけでもバッチリです、息子よ、成長してるなぁ。
あ、早々に脱線しました。3つの作品と感じたことを並べます。
1つめの作品
初めに目にとまったのが織工が描かれているゾーン。当時、かなり枚数を描いていたのでしょう、今でもこれだけ残っているのですから。単純に、「暗い印象」それは色使いであり、光の描き方であったりで感じました。ただ暗いだけではなく、黒の階調が深く、暗く見えにくい部分をかなり描き込んでいた印象を受けました。
勝手に妄想すると、ゴッホが美しいと思ったのか、光が当たらない部分こそ自分が描いて残しておくべきものと感じたのか、世間とは違うニッチな部分を描いて世間に認められようとしたのかは分かりません。が、明度が低い部分に確かに表情を感じられました。単純に、作業場は本当に暗く、見たまま描いたのかなぁとも思いましたが本当のところは分かりません。
2つめの作品
次に、版画の作品。ゴッホは、作りながら面白くなかったのかなぁと感じました。それは、同時期の絵と表現があまり違わなかったからです。新しい技法を試すときにはガンガンおもしろ要素を入れちゃえ!みたいになりそうなものですが、ここはそういったことを感じませんでした。解説を見るとなるほど。版画は技術的な部分が評価される傾向にあり、当時ゴッホは評価を受けられなかった。だから心の面、感情を表現するということに力を注ぐことに重きを置くようになった…と。
ゴッホは時間的制約で版画技術に時間を注ぐのが惜しかったのか、あるいは版画技術を深めるよりも、人間の内面を表現することが強みなのではと考えていたところだろう。その部分に対しては私も強みと捉えているので共感できた部分です。
3つめの作品「野牡丹と薔薇のある静物」
最後に、バラと野花が生けられた花瓶が置かれた机の上には、他にも色味が弱いバラとしなびた野花など、きらびやかな花瓶より下に目線を落とすと、選ばれなかったものたちが存在している。その対比が表現されていて、ただただ美しいという感覚を問い直してみてはどうだろうかと提案されているよう。はたまた、机の上に置かれなかった花をゴッホは自分と重ねていたんだろうか。絵の中に、深みと言いたいことが読み取れそうなのは、この作品が一番だった印象です。
ゴッホの焦りと生み出す苦しみ
さて、ここでゴッホと作品の関係をみてみましょう。と言っても専門家でもなんでもないので、一般目線からの驚いたことと感想を。
ゴッホは、10年間で約2,000作品の制作を行なっていた。つまり、2日に1枚作品を描き上げていたという計算になります。これって結構とんでもないことだと思っていまして、実際にキャンバスを目にすると、玄関のドア半分くらいの大きさの紙に描かれた作品たちや、鉛筆で繊細に描かれた作品…こういった時間がかかるであろうものを2日に1回のペースで描き上げていたんだと。常人では到達し得ない継続力と確かな意志が感じられました。命を作品に吹き込むというか、作品が命の一部というか…苦しみながら描いたのではないかなと、私は思ってしまいました。
というのも、ゴッホが画家を始めたのは27歳、没37歳。その10年で2,000作品。生前は、食事よりも画材にお金を使っていたとのこと。ゴッホは体力的にも精神的にも擦り減ってしまっていたのではないでしょうか。ゴッホが絵を選んでいなかったら、もう少し人間らしい生活を送れたはずです。それでもなお、絵を描くことに命を賭した。その執念にも似た情熱が、ゴッホを今の時代にも語り継がれる画家としてここまで押し上げたのかもしれません。
ゴッホは死んでから価値がある作品と評価された。良くも悪くも、生きている時に評価されなかったからこそ、こんなに作品を描き続けられたのかもしれない。誤解を恐れずに言うと、評価されたらそこまで死に物狂いで描かなくても生活できそうだし、生活が変わると作品も変わってくるんじゃないかなぁという気がして。
作品の価値の感じ方、それで良いんだろうか
そもそもなんですが、価値ある作品ってなんでしょうか。この原画にはどういう思いが込められたんだろう、どういう人に見てほしかったんだろう。そう思いながらゴッホ展を見終える間際、ある光景が私の目につきました。
【夜のカフェテラス…それを1列目で見ようと行列を作っていた人たち】その人たちがスマホ越しに夜のカフェテラスという絵を写真として残していた。絵を見たのはスマホを通してのみ…パシャリ。そして前に歩いていく。
もやもやしながらゴッホ展の出口へ。ふと会場2階から1階のゴッホ展の記念売り場に目をやると、夜のカフェテラスに並んだ行列よりも多くの人が列を成してこぞってグッズを買っていた。そんな光景。
シンプリストと芸術鑑賞
正直、芸術なんて人それぞれ楽しみ方があっていいんだと理解しています。そう思うと同時に、納得はしていないです。
自分の命を削って描き上げた作品の数々、原画だからこそ鑑賞者の向き合い方も真っ直ぐであってほしい。せっかくの、原画。生きているうちに二度と肉眼で見られないかもしれないこの瞬間と空間と感覚を大切にしてほしい。「ゴッホ展に行ったよー」をSNSにアップロードするため、もしくは後から思い起こすために写真を撮るという時間の使い方。本当に自らの命の使い方としてあっているんでしょうか。
作品から得られる個人の感想は、私は必ず正解だと思っていますし、人に言っても言わなくても心の中で何かを感じられるものです。コーヒーの苦味をおいしいと味わえる気持ちがあるなら、作品にも相応の深みを感じ取って然るべきなんじゃないでしょうか。よく分かんないからという言葉に逃げるんじゃなくて、そんな自分だからこそ感じ取れるものがあると信じて向き合ってほしい。
なんでもかんでもスマホを通して体験・わかったフリするよりも、自分の目で、耳で、感覚で感じ取れるものの方が価値があると私は思っています。
最後に
こうあってほしいという願望を書いてしまいましたが、ゴッホが命を削って描いた原画、それでいて生きているうちに評価されなかった苦しさ。真っ暗闇の中にも光があってほしいと願う、確かな執念。人生をかけたゴッホの作品がそう訴えてかけてくるように思えてなりません。
ゴッホがもし取り憑かれたように絵を描き続けなければ…長生きしていたならば…未来はガラッと変わっていたかもしれませんね。
